丸山定夫の碑 [鎌倉] [観光]  高ヒット  


大正・昭和期の代表的性格俳優、新劇の団十郎の記念碑。

看板より。
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丸山定夫は、明治34年5月12日、愛媛県松山市北徒歩町に、海南新聞社編集長。丸山常次の四男として生まれた。そして早くから演劇の魅力に憑かれ、大正13年6月3日、築地小劇場が東京築地に開設されるや、その開幕のドラを叩いた。
つづいて昭和3年まで同劇場にはたらき、昭和4年新築地劇団の創立に加わって、15年まで舞台に立ち、独異の性格俳優として「新劇の団十郎」とまで言われ、新劇史上不朽の名をとどめた。人間としても、よく読み、よく歌い、よく飲み、よく恋し、友を愛し、人の世話を見、純情で敏感で柔軟な心情を以って知る人すべてから愛された。
が、昭和20年8月6日、広島市堀川町99番地、移動演劇桜隊の宿舎
メリカ軍投下の原爆に遭い、十日間の苦悶の末、16日、厳島存光寺の庫裡で誰にも見取られずに43年のいのちを閉じた。
その後、埋められた場所さへ知られずにいたのを、最近この地に朽ちかけた墓標が発見され、友人知人たちの協力で新しく記念碑が建てられた。知友人代表として、その由来を記す。

1966年10月

藤森成吉


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