「北条氏が専制政治を行う為には、三浦、和田氏の抹殺が必要であった」
鎌倉幕府執権政治を確立した戦いを物語る史跡。
[由来]
建保元年(1213)、泉親衡が前将軍源頼家の遺児・千寿を擁して北条氏の打倒を企てた。しかし事前に発覚、捕らえられ一味の中に和田義盛の子・義直と甥の胤長がいた。
義盛は二人の息子の赦免を願い出て許されたが、胤長は陸奥国に流罪となった。北条氏にとって、和田氏は幕府創設以来の功臣であり、最大のライバルである三浦一族であった。
その後、和田義盛は密かに北条氏打倒の挙兵の準備を進め、軍兵150騎で幕府を攻撃。北条泰時以下、幕府の御家人達は必死に防戦したが、和田軍に突入され幕府の建物は全焼した。
しかしその後、幕府軍の巻き返しにより、和田軍は劣勢に陥った。義盛の四男・義直が討たれた後、義盛も戦死し、和田一族の乱は終結した。
和田氏が滅び、三浦氏の権威も失墜したことで、北条氏の勢力はますます強まっていった。
和田塚は、その和田一族の墓である。明冶25年、新道を開く為にこの塚の一部を掘ったところ、おびただしい人骨が出てきた。それらは、和田合戦の時のものと目され、同地に「和田一族戦没地」の碑が立てられ、現在に至る。
【参考サイト】
http://www.kamakura-burabura.com/meisyohasewadatuka.htm
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