記念碑「元始女性は太陽であった」
平塚らいてうと茅ヶ崎市の関係
その昔結核が多かった頃、海岸に南湖院というものがあって、北村透谷や国木田独歩、平塚らいてうの夫君などが療養していて、茅ヶ崎には国木田独歩と平塚らいてうの碑があります。
らいてうは高砂緑地に別荘を持っていたようです。
平塚らいてう
日本の思想家・評論家・作家・フェミニスト。結婚後の本名は、奥村 明(おくむら はる)。「平塚明」あるいは「平塚雷鳥」とも表記することがある。戦前戦後を通じて、日本における女性解放運動・婦人運動を指導した。
一説によると、関ヶ原の合戦(1600年)で戦死した西軍の武将平塚為広(大谷吉継の与力・美濃垂井1万2000石)の末裔とも言われ、為広が討ち取られたとされる場所には彼女の意向で建立された慰霊碑が現存する。(Wikipedia参照)
茅ヶ崎市高砂緑地
明治時代以降、茅ヶ崎の海岸に近い一体は夏の避暑や冬の避寒の地として別荘地に利用された。
高砂(たかすな)緑地は、明治30年代に新派の俳優であった川上音次郎が別荘を構えた地である。
川上音二郎は福沢諭吉の書生であったが、その後、新派俳優として、壮士芝居というものを始めた。時事風刺を交えたオッペケペー節という歌を裃、鉢巻姿で扇子を操りながら唄い、明治の中期に名を馳せた。
1919年、実業家であった原安三郎が、川上音次郎の別荘を含む地域を購入し、あらたに広大な別荘地とし、「松籟荘(しょうらいそう)」と名づけた。
地元ではこの別荘地を松籟荘とは呼ばず、原別荘と呼んでいた。30年ほど前までは、広い敷地の中に松林に囲まれた洋風の大きな建物がたっていた。
その後、茅ヶ崎市がこの地を購入し、高砂緑地として保存し、公園化した。この別荘地の東北端の小高い丘は茅ヶ崎市美術館となっているが、昔、その先きの地続きに標高50m程の松林の砂丘があり、高砂山と呼ばれていた。
この山は、1954年頃切り崩され、平地化された地域には住宅や幼稚園が設立され今は当時の面影はまったくない。高砂緑地の松林がわずかに当時の様子を伝えている。園内は梅の木が多く残り、季節時には美しい花が見られる。
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